
シンセリアリティ
ポツポツ降っていた雨の音が、次第に大きくなっていく。屋根のある商店街とはいえ、地面のところどころが水滴に侵食されていく。歩行者の傘から滴った雨水が、点々とした水溜りをつくっていく。
天候はストリートミュージシャンにとって、その日の命運を左右するほどの死活問題である。寒い日に人はわざわざ曲を聴くために立ち止まったりしないし、暑い日には冷房の効いた涼しい場所を求めて店内へ逃げて行ってしまう。
もちろん私だって今日のようなジメジメした日には、スターバックスでアイスコーヒーでも飲みながら過ごしていたいと思う。けれど、なんだかそれは自分を裏切る行為のように思えて、気が引けてしまう。今の私にできることは、ただ歌うことだけなのだ。
「…っ!」
誰かが小さくうめく。スーツを着た男性が、地面に置いていたギターケースにつまずいてしまったようだ。歌っている私は曲を止める訳にもいかず、謝罪の目を向けながらも彼を見た。
彼は目を細めて、私の顔を見た。
そして歩調を早め、すぐさまその場を立ち去る。
彼の口元はマスクで隠れていたけれど、その目は決して応援してくれる類の好意的なものではなかった。喉元をぐっと掴まれたような気分になり、歌うのをやめてしまいそうになる。だけど、絶対に歌を止めてはいけない。それをやめてしまえば、負けを認めてしまうことになるから。
一曲歌い終わり、聴いてくれていた数名の観客がパラパラと拍手する。
お願い、あと一曲だけ聴いて。
次の曲はきっと、もっと気に入ってもらえるから。
そんな願いも空しく、皆別々の方向へと歩いて行ってしまう。
蹴飛ばされたギターケースの位置を元に戻す。まだ一つも売れていないCD。そのケースの一部にヒビが入っていて、余計泣きそうな気分になった。
「なんて曲ですか?」
「…え?」
声をかけられて、思わず体がのけぞる。
そこにいたのは、私とそこまで年の変わらないスーツ姿の女性だった。
「途中から聴き始めたので、曲名がわからなくて…」
「あ、えっと。『シンセリアリティ』です」
「シンセリアリティ。どういう意味ですか?」
「えっと、その…。シンセリティと、リアリティを掛け合わせた造語で」
しばらく誰とも話をしていなかったので、言葉がうまく出ずしどろもどろになる。しかし彼女は、私の言葉を遮ることなく最後まで話を聞いてくれた。
「なるほど。シンセリティとリアリティ。誠意と現実ですか」
「あの、どうでしたか?曲」
「とても好みでした。これ、一枚いただけますか?」
そういって彼女は、先ほど傷ついたばかりのCDを一枚手に取った。
「あ、ありがとうございます。でも、こっちの方が綺麗で…」
「ううん、こっちで大丈夫。それともしよければでいいんですけど、もう一度聴かせてくれませんか。私、この曲大好きかもしれないから」
そんなことを言われるのは、初めてのことだった。
身体の芯に雷が落ちたような、衝撃が走った。目元がじんわりと温かくなる。
歌手活動を始めてから、たくさんの苦手なことを経験した。
人前に出るのは苦手だった。誰かの前で自作の歌を発表するのは、勇気が必要だった。
SNSは苦手だった。定期的に投稿をするのは、思っていた以上に大変なことだった。
オーディションは苦手だった。知らない人に自分を売り込むのが苦手だった。
克服できたわけではない。だけど、それ以前よりはこなせるようになった。
全ては、私の音楽を誰かに聴いてもらう為。
そして、「あなたの曲をもっと聴きたい」と言われたかったから。
もしかしたらこの人が、喫茶店で快適に過ごせたはずの五分。
私のために割いてくれた、人生のなかの貴重な五分。
絶対に無駄にはできない。
せめてコーヒー一杯分の価値を。
いや、そんな小さなものではなく。
感動などというありふれた言葉では表現しきれないような。
満足を。刺激を。喜びを。衝撃を。心地よさを。
もっと。
もっと私の曲を聴いてくれ。
いつの間にか雨は止み、雲間から光の筋がのぞいている。
スポットライトのように、私の足元が照らされていく。
例えば夢が終わるとしても、この現実は続くのだ。
それならば私は、夢が嫉妬するほどの現実を歩み続ける。
だって、これが私自身の望んだ道だから。